2010年12月24日金曜日

結婚というファンタジー

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  異なった意見が対立し、話し合っても解決しないときは、だいたい下の3パターンに分けて考えるようにしている。


1) 双方に論理的整合性はあるが、定量のさじ加減で結論がかわるもの
   例:日本が核武装すべきかどうか、リフレすべきかどうか

2) 立場により結論が変わるもの
   例:高齢者医療、減税か増税再分配か、関税撤廃か保護主義か

3) 一方あるいは双方が感情的になっており全く話がかみ合わないもの
   例:夫婦別姓、歴史認識


  もちろんこれらが重複することもある、というか厳密にはみんな重複している。
  さらに大事なのは、各種問題に「右か左か」という「思想パッケージ」に内包されているだけ、という場合があることだ。例えば、共産党は一般的に軍拡・武装化だが、日本共産党は非武装中立である。これは戦後日本の左翼思想パッケージとしての非武装中立と考える。

  私は「選択的夫婦別姓」反対論者の論理は完全に破綻していると思うが、下記のエントリを読んで、反対論者の気持ちを推察することができ、合点がいったので紹介したい。



(以下抜粋)
  自由のない社会を変えないでほしい、というのはどういうことでしょうか。僕は特に婚姻制度、いや「結婚」といったほうが適切でしょうか、結婚というものに対する感情というか気持ちが、この話が捻れやすいポイントのような気がしています。多くの人が、それぞれ内容は違うでしょうが、結婚というものについてイメージをもっています。ファンタジーといってもいい。それは例えば「部屋とYシャツと私」的世界だったりするかもしれません。で、そのなかには、「夫の名前に変わることを喜ぶ新妻」なんかもあったりする。こういうシチュエーションに象徴されるような、結婚に対する人々の考え、親戚や周囲の人との関係、それを支える法的制度、(疑似)伝統文化、そういった様々なものが全体として「あるべき婚姻制度のかたち」という、一つのファンタジーを形成しているのだと思います。そのファンタジーを壊してほしくないのではないでしょうか。みんなが、これまでと同じように、同じファンタジーを共有していてほしい。そしてもしそういったファンタジーの共有がなければ、社会的紐帯の全体が損なわれる、と恐れているのではないでしょうか。

  もしそうだとすれば、やはり「社会にいろいろな違った人たちが共存していても、何も怖がることはないよ」ということを納得してもらうしかないのではないか、という気がしてきています。まあ、そうまでして「感情的」にも納得してもらう必要がどれだけあるか、というのは一方であるのですが。


  これを読むまで、僕は反対論者の言っていることが全くわからなかった。別姓を強制するわけではないのに、どうしてダメなのか、全くわからなかった。渡辺喜美さんが10年以上前にテレビで、「僕は保守だから、夫婦別姓にしたい人の気持ちはわからないが、別姓にしたいひとがいる以上、選択的夫婦別姓に反対する理由がない。」とお話しされていて、スタンダードな保守派の意見として最も納得できるものだった。それでも選択的夫婦別姓に反対する理由として「社会が壊れる」と言われたときに想定されるのは、別姓夫婦の子がグレることであるが、夫婦ともに姓の変更でキャリアに支障が出るような職業はそこそこ裕福な家庭であり、むしろ育ちがいい子どもが想定されることから、全く納得できなかった。それが今回のはてなエントリを読んで、やっとすっきりした。

  まあ、結局は多様性を認めない同一性の担保された社会を理想とするコミュニタリアン的排他主義、村社会主義に収束するのだが。
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